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Love Me Tender

池袋ADMでバレットキャバレー。
シライショウゴにはひょっとするともの凄い覚悟があるのかもしれない、とふと思い、慄然とする。
覚悟とは、メジャーになるとか、あるいはならないとか、どちらでもそれほど違わないのだが、そういった覚悟ではなく、数層深みにある、覚悟である。
この男は、背負いきれぬと知ってなお背負おうとしている。
仲間を。女を。
そんな気がした。


戦慄は充足であると同時に欠落であるので、性的な陶酔による、喪失を獲得したくなる。
最前列の、緑色のセーターの女の子が眼に留まる。
背中に薄いが重く付いた肉と、丸い脹脛とで、彼女が肉体的に、時代に選ばれている女ではないことが、まず私に安息を齎し、時折見える顔の造作が端整で、それと矛盾せぬ貧相さもあって、肩までの髪は人の手による、それでも彼女の健康さが涌出した栗色で、しばらく、値踏みするように見つめていた。
16ビートにアレンジされた曲の最中、彼女は細い指で両耳を触り、身体を軸ごと震わせた。
ひかがみに蜉蝣が見えた気がした。
彼女は悦に満ち、悦が耳から溢れてきて、それを慌てて手で掬おうと、しているように見えた。
彼女から溢れた悦は、そのまま私の陰嚢を満たし、重くした。


早々にライブハウスを去り、池袋駅のトイレで、声を挙げて自慰をした。
彼女の裸身を思い描くことはできなかった。
彼女の悦が私から溢れ出し、空になった。


池袋を歩くと、吐き気に似た刹那さに眩暈がする。
思い出すのは女の顔であり身体であるが、その像はすぐに消えて、部屋の記憶が残り、それはそのまま時間の焦げつきとなって、手のひらにべったりと張り付く。
闇雲に女を抱く金を持っていないことに、どうしようもない哀しみが募り、ストレス、とはこういうことを云うのかと思ったりした。


悦が極まると尿を漏らす女と遊びたい。
明日はまた甲府だ。
甲府で尿を浴びることができるだろうか、と思っていると、
長風呂を心配した妻の声がした。


湯上りにビールを呑んでいると、長男が、「咳は治ったの」と訊く。
治ったよ、すっかり元気だ、と応えた。
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  1. 2007/11/30(金) 00:54:37|
  2. diario
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volver/catwalk

原千尋の裏ビデオが手に入ったが、見れぬまま風邪で寝込む。
どうにか喘息を併発させずに済む。

木曜夜、弘南バスの夜行「パンダ号」にて弘前へ。
東北に入るなり豪雪。
雪の中で深呼吸をすると、懐かしく、性的な気分になるが、右肺の底に鈍痛を感じていて、とにかく眠りたかった。
iPodにて、普段じっくり聴かない曲をゆっくり聴こうと思い、ストラヴィンスキー「春の祭典」を探したが、どういうクレジットで登録されていたか思い出せない。
持っているのはバーンスタインの指揮のものだけだと漸く思い出し、聴いているうちに夜明け。
ターミナルで姉を待つ。

金曜昼は、実家にて父の所有するドカベンプロ野球編~スーパースターズ編を通読。
水島新司はミニマリストだ。
私はミニマルが、好きではない。

午後から姉と買い物。
何も買えぬまま、寒さに疲弊する。
中土手町の喫茶店の窓際に座っていた女の、ロングブーツからはみ出した厚い靴下の緑色だけを憶えている。

かつての中心街は見事に寂れていた、と思ったのだが、それを寂れたと云えるほど、私は定点にいない、とも思った。
駐車場や道路や空き地になってしまった場所を眼で追いながら、ただ、手が冷たく、小便がしたかった。

紀伊国屋書店にて時間を潰す。
ウェルベック「ある島の可能性」がイギリス文学コーナーにあったのを、正す。
小説のコーナーに長く居たくなく、医学書のコーナーで肛門疾患の専門書を流し読みしていた。

戦友と合流し、薬局でドリンク剤と肝臓薬を飲む。
肝臓薬は「バーボーヘン(八寶片)」という商品名だった。
ポール・八寶片、と呟きながら駅前へ。

イタリア料理屋の女性店員は、眼を疑うほど可愛らしかった。
それもタイプの違う二人、ともである。
店長であるギタリストに会いに来たのだったが、私達は、興奮していた。
彼女達は宇宙の意志だ、などと喋りながらワインを空けた。

鍛冶町「マリゴールド」にて旧い友人夫妻と合流。
私が離婚した、という噂と、その出所に、少し驚き、少し嬉しくも思った。
夫妻が帰り、マスターと話し、知遇である呼び込みの斉藤を探しに再度街へ。

斉藤は居なかったが、呼び込みの男を斉藤と名づけ、彼に従うままパブへ。
席に付いた女の子は、一人は量産人形のようで、一人は目尻と膝頭が不幸そうで、二人とも、背骨を緩ませるほど美しかった。
乳房を露にした全員の顔を至近で見ると、背中の膚の荒れたショートボブの子が、最も美しかった。

退出して再度マリゴールドへ。
セックスと音楽と文学の話を、同じ温度で聞き、応えてくれるここのマスターほど、男前な男を私は知らない。
が、セックスの話しかせぬまま、バーふきたへと向かう。

ふきたさんと会えたのは本当に嬉しかった。
私達にしか話せない話なのだろうな、と思いながら、幾つかの重い話を聞いた。

明け方に帰宅し、2時間眠り、祖母の十三回忌法要へ。
曹洞宗万蔵寺住職の読経は、以前より冴えていた低音はそのままに、スケールをアレンジして、重厚にさせているように感じた。

昼食後に喫茶Doへ。
偶然シャンソン歌手の秋田漣さんと会う。
寺田農と三上寛と漣さんとで市民会館(緞帳は棟方志功作)にてコンサートを行う、という話を聞いて、妖怪大戦争だ、と思い、笑う。
息子のことや文学のことを聞かれて、曖昧に誤魔化してしまった。

空港へ向かう姉とともに、駅前を少し歩く。
北国の冬をショートパンツを履いて歩く女の子の、腿からはみ出るストッキングの厚い部分、を、眼を細めて見る。

帰京のバスを降り、上野駅日比谷線のホームで、小便と吐瀉物の匂いの中で、深呼吸をした。

夜は、とても好きな女の子が死んでしまう夢を見て、泣きながら月曜の朝。

仕事で栃木県足利市へ。
特急りょうもうに乗るたびに、魍魎、のイメージが頭をよぎる。
予期せぬ成功を納めて、帰宅。
妻が風邪で寝込んでいて、氷枕をあてがってから、冷えたナポリタンスパゲティで夕食。
ビールをたくさん飲んだ。

これまで触ったことのある全ての女の人の身体を、もう一度なぞりたい、月曜の夜。
  1. 2007/11/26(月) 23:32:04|
  2. diario
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Whatever Happened to My Rock and Roll

◆予定:12/29 BUCK-TICK 武道館


2階席今井側。
今年の年末武道館は「THE DAY IN QUESTION」ではなく、「天使のリボルバー」ツアーファイナル。
渋谷でのTHE BULLET CABARETのイベントと重なったが、悪いなショウゴ、今年はこっちだわ俺。
ニューアルバムが、ちょっと素敵だったし、武道館、行きたいんだよいま。すごく。


 


◆予定:2/24 コロッケ 土浦市民会館


ロマン優光のコラムで、コマ劇場でコロッケを観て笑い死にしそうになった、というのを読んでから、いつか観よう、コロッケ、と願っていた。
チケット発売日に妻が朝一で会館に(プレイガイドに、じゃないところが素晴らしい)電話し、4列目の中央を入手。
次の日に休みを取ろうかしら。


 


◆最近観た映画


9songs」Michael Winterbottom 2004年


端的。端々しい、と書いて、みずみずしい、と誤読したい。
ウィンターボトムのことを好きなのか嫌いなのかよくわからないのだが(珍しい「多作」の監督として、この人はもっと評価されていいのだろうが)、この70分は奇跡のようなものだ。
Franz Ferdinandがこんなにも格好見えるなんて、と思い(このバンドは皆童貞っぽくて気持悪かったのだ)、聴き直したら、やっとリードギターがやりたいことが、わかってきた。
Black Rebel Motorcycle Clubの2曲は、スペシャル。
匂いや膚の感触を憶えている、という冒頭のモノグラムは、ラストシーン、南極上空での「Beautiful!」に結晶される。
我々はまんまと騙されるのだ。
映画こそが至高の芸術である、と酔った眼で話してくれた女の人がいたが、この映画の、このやり方について考えると、そうなのかもしれないな、と思う。
(ウェルベックの『プラットフォーム』にインスパイアされた、ってのは本当なのだろうか。そうだとしたら、この人はちゃんと『読んで』いる)


 


The Dreamers」Bernardo Bertolucci 2003年


シェルタリング・スカイ以来のベルトリッチ。
シナリオが、というより台詞が、雑。
それゆえ、なのかなのかどうかはわからないが、ベルトリッチっぽさ、は十二分に出ている。
主演の3人は、とにかく褒めたい。
エヴァ・グリーンの乳輪と腰つきには、フランス女の匂いのリアリティ=夢がある。
目蓋の重さもいい。シャーロット・ランプリングのような妖怪に変化する資格を持った女の子だ。
ラストへのくだりはドタバタにしか見えず、ドタバタで終局させた以上「時代」も「土地」も「思想」も「青春」も吹っ飛んで、吹っ飛ぶことは吹っ飛ばそうとしているのならいいのだが、残念さ、ばかりが残る。


 


るにん」奥田瑛二 2004年


松坂慶子、という妖怪に涙する。
私が奥田瑛二原理主義勢力過激派であることは再三触れたかもしれないが、映画作家としての才能を讃えているわけではない(才能がないと言っているわけでもないが。実際時折だが、出色のカメラワークを見せる)。
妖怪を、操ることができる男なのである。
松坂慶子の膣に、頭から潜り込みたい、と思った。
「少女」の小沢まゆも、見事。


 


ゆれる」西川美和 2006年


音楽以外、完璧。
(非常に中途半端な贋ファンク。贋ジャズ=ラウンジリザーズなら、最高だったのに。)
完璧、という評価を私はよくするが、脳髄のずっと奥にある腺を、揺らしてくれたら、私にとっては完璧、なのである。
ミステリー、伏線、兄弟の相克のドラマ、真実、結末、それらが、映画の要素だとしても、映画の、外側にある髄、ではない。
外側にある髄から溢れたものが、全てを包む。
外側にある髄を目指して、言葉を選び、音を選び、光を選ぶ。
髄液は脳髄の奥の腺と共鳴し、染み、揺らす。
何が揺れているのか、など、知ったことではない――
それが映画を体験することだと私は思っていて、これこそ映画だと、思った。
誰かとセックスしている真木よう子は、いつでも観たい。


 


女ひとりを、一晩貸し切りたい。
知りたいことが、多すぎる。

  1. 2007/11/18(日) 01:00:58|
  2. cine
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夏の匂い

確かにあなたは あの時此処に居て
大切な事を 打ち明けてくれた
背中を抱いて 守っているような気がした
背中を抱かれて 守られているような気がした
――ふきた「夏の匂い」



吹田さんのことを書くとおそらくキリがない。
唄を聴いて、泣きじゃくって、泣いたまま泣いた顔が、顔を支点にして裏返りそうになったのは、多分吹田さんの唄以外にないんじゃないかと思う。



Popland Off Gallery、というバンドがあった。
80年代から90年代終わりまで、東京で色と云えぬ色を放ったバンドだった。
元さかな、元コリアンブッデストゴットのPOP鈴木さんが加入するあたりに、私は上京し、世話になった。
吹田さんは、あらゆるスターがそうであるように、個人的な事象を個人的に唄い、それが普遍性を帯びていた。
(が、その普遍性を認めようとしない「個性」とやらが蔓延りはじめていた季節だった)
ベースの白取さんは鳶の親方で、女性問題で問題を抱え続けていた。
(2年ほど前に再会したとき、「普通に暮らしている」と私が云うや否や、白取さんは鳩尾に拳を打ち込んでくれた)
私はPopland Off Galleryのライブに欠かさず出かけ、泣いたり、怒ったりしていた。
おそらく、愛していたのである。



社会性を剥ぎ取られたところから創作は出発する。
それが普遍的な真実ではないと知ったときのショックは只ならぬものだった。
社会的に成功したい連中と、成功を無視することでかえって社会的になっている連中、ばかりだった。
ショックの前にニーチェやショーペンハウアーを読んでしまっていたことは、損をしたように思ったが、それでもブコウスキーがいた。
自分達の曲があって、自分の詩があって、沈潜する、爆発力を帯びた性欲があって、若く、寂しく、不機嫌だったが、例えば橋の上から、他人、の真の姿が見えていた。
Popland Off Galleryは、吹田さんは、その風景に、居た。



吹田さんは平沢進でありレックであり三上寛である。
私は――



今日は機嫌がいい。
30になって大江はねえよな、と「空の怪物アグイー」を閉じて、立ったまま眠り、眼を覚まして乗り換え、中央線に乗り換えるたびに吉祥寺の女を、まだ思い出すことに、醜く微笑んで、バタイユ「マダム・エドワルダ」を読みながら、ああこれは絶対に30過ぎでもオッケーだ、バタイユは絶対女にもてないよねー、とか言っていた村上龍はいつかこの手で殴り殺したいな、と改札を過ぎると、甲府だったから。


甲府に情婦がいればよかったのに。
甲府に情婦。
坊主が甲府に上手に情婦の絵を、
情婦の絵を。



「空の怪物アグイー」は、なくなっていた。



吹田さん、
来週末、弘前で会えたら嬉しい。



何を書きたかったのか、といえば、
女の子の尻の穴を舐めたくて、仕方がない、ということ。

  1. 2007/11/16(金) 00:50:42|
  2. musica
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しばらく外で自慰をしていない。

駅であれ百貨店であれオフィスであれ、かつて私はいたるところで自慰をしていて、舗道もフロアもデスクも、射精と射精との間のモラトリアムであり、蟀谷がいつもいらいらと震えていた。
疼きによってそうしていたには違いないのだが、獣欲に突き動かされていた、というわけではない。
射精のあとには、初めて視力を矯正した瞬間の感動が訪れる。
眼を水のように光が満たして、溢れたあとの清澄さに、潤い、息を吐く。
その瞬間だけが欲しくて繰り返していた。
眼が濁るのが耐えがたかった。

つまるところ私は射精に中毒していて、それがいつの間にか、平気でいられるようになったことに、居心地の悪さを感じている。
何かが萎縮したか、飽和したか、凝固したか、腐敗したか。
破裂だけはしていないことを知っているので、具合が悪い。

セックスと自慰は射精において全く差異はなく、セックスが他者との交わりだというのは、それが好き合う相手であろうと、大間違いではないか、とぼんやりと考えていた。
唯一他者と交わるにはいわゆる「愛」が必要であり、それは私には無縁である、というのが、どういうわけか私の所与だ。
だから、破滅を司る、という意味のみにおいてセックスに憧れる。
子供の頃、「性奴隷がほしい」と切に願っていたが、社会性も言語も(その二つは、私においては同義ではない)それなりに得ても、何も変わっていない。
私の種から産まれた子らの存在は私の思惟の表層をレリーフするが、それを私は指でなぞろうとはしない。
己の麻痺を受容することにかけては、私は女神のようだ。
私はいつでも深く眠ることができる。

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最近嬉しかったのは、「坂のある非風景」のfavoriteに入れていただいたことだ。
Mさんは私をわかってくれている、などと云うつもりは毛頭ない。
病的
、と書いていただいたことが、ただ嬉しかった。

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安達哲「お天気お姉さん」を数年ぶりに買い直した。

何てドラマティックなんだろう。
以前通っていた文学学校にて、出海溪也という詩人の講演があって、詩はメタファではなくアレゴリーであるべきだ、といった内容だったのだが、これこそまさに、アレゴリー=寓話である。
仲代桂子は、偏在するのだ。



通勤途中に森巣博「神はダイスを遊ばない」を読む。

下品。
常打ち賭人、として生き残ってきた己を、負けの必定を語ることによって、フラジリティの衣を纏いながら正当化している。
こういう人は文化人めいた仕事を好むんだろうな、と思っていたら、案の定そういう著作も多いらしい。
そもそも確率の劣位で賭博をカテゴライズしている時点でうんざりだ。
底の浅い語彙にも苛立つ。
ただ、被虐のループから脱する麗人、という戯画を傍から描ける男は、この人ぐらいなのかもしれない。



若合春侑「蜉蝣」をブックオフで。

伊藤晴雨で一本書け、と云われたら誰でも思いつくような筋であり、特に結末は非常に残念だが、この人は決して男には書けず、女である己と戦っている女にも書けない「女」を書く。
旧漢字と旧仮名と、肛門と生傷を剥き出しにするやり方で、読者にフィルタをかけている(おそらくそんなつもりはないのだろうが)のも小気味いい。
本質的にエンタテイメント作家、という希少な人だと思う。

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ごく最近恣意に選んで読んだ上の三作には全て「被虐のループ」が登場する。
一度凌辱されると、それを知らぬ他者からもまた凌辱されてしまう、というものだ。
少し前に韓国で同じような事件があった。
こうした被害者は女性であることが多いから、報道は同情を集めようとし、それにより凌辱者が裁かれることに何の異論もないが、暴力の誘発性が高い個人、というのは確かに存在していて、それは男性であることもあるし、国家であることもある。
人間の正体、などと云ってしまえばあらゆる報道と同じく何も結ばないものになってしまうが、こうした不可思議さ以外に、何が創作の発火点となるのか、と思う。

環の奥にあるもの。
それは決して「闇」の抽象ではないはずだ。

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この日記は私が澱むためにあります。
なるべく、眼を澄ませて。

ご無沙汰してました。
お久しぶり。

  1. 2007/11/12(月) 01:37:00|
  2. libro
  3. | トラックバック:2
  4. | コメント:2







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Aqui esta:
アスルサングリエント

Me llamo:
慈姑(クワイ)

A mi mismo:
この夜、凶なきか。
日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。
深更に魘さるるか。
あやふきことあるか。

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