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when the sea is rumbling

耳の裏、経絡穴でいえば風池のあたりが張っている。
午前は次男と、午後は長男と寝て過ごす。
少量のアルコールを口にすると、急激に大量の光が眼球に飛び込んでくる。
ハレーションを起した脳髄もすぐに褪め、重る。


性的なフラストレーションと、概ねそれに因るメランコリーこそが私のブルースであり、ブルース以外に唄えることも話せることもないのが私であるが、言葉を吐くことに困難を覚える日々が30歳を過ぎても訪れることに些かうんざりして、煙草ばかり吸う。釣崎清隆のインタビューを熟読する。PORTISHEADを聴く。こうした夏の夜にぬるぬると睦んだ女の人のことを、ではなく、その行為そのものと、匂いを、時間の密度を思い出そうとする。密室に射していた光線の具合や、ひと塊になったシーツや、浴室のタイルの模様や、灰皿の形や、視覚的な記憶しか蘇らないことにひどく失望して、本棚の前に立つ。六田登『海が鳴く時』。


幼き日から若き日にかけて、パラダイムシフト、とも云うべき衝撃を与えてくれたのは、太宰でありショーペンハウアーでありブコウスキーであり、古井由吉でありヘミングウェイでありニーチェであり、大きく文学と括ることができそうなものだったが、私の裡に鳴る通奏低音、とでもいうべきものに名を与えてくれたのは、安達哲や山本直樹や、六田登の漫画だった。


父を見失い己の実体を掴めぬまま成長し、女と出会い子が生まれ、別れ、それから18年経た男が、別れた娘と知らずに交わる。
娘もまた父を探し求め続けていたことが顕かになっても、互いを求め続ける。閉ざした部屋が二人の体液の匂いで澱んでいき、やがて古い時計が鳴り、二人は娘の母親の故郷である島へ向かう。


ありふれたストーリーだと思う己を、いまでも抑制しようとする己がいる。
寄る辺なく、飢えて、求め合うこと、それだけを真実としたい己が、まだここにいる。


お前は誰も愛したことがないのだろう、と18歳の私に云った人がいた。
それのどこが悪い、と実際には矛先の定まらない敵愾心を剥き出しにする若さは、既にない。
いま同じことをその人に云われたら、
ひでえことを云いやがるなあ、と、笑みさえ浮かべることができるだろう。

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  1. 2007/07/30(月) 02:08:39|
  2. libro
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無灯艦隊

一ぴきの蝶に襲われている時間

ぎゃあぎゃあと舌毟りあう棕櫚の家

階段で四、五日迷う春の寺

――西川徹郎


 


毎日見る、ということは、記憶よりも忘却に近い。
忘却の清浄さの中から、生涯の反復が淡く浮かんで、棄てられる、往生とはこれに近いだろうか、とどこかで読んだが、蓋し然らん、私は往生を生きている、少なくともそのつもりで、いまここに座っている。


池袋のある風俗店の出勤情報を、毎日見ていた。
それは止すことも止さないこともできた。
私は反復に委ねた。
私も、そこに勤める女も、追ってもいなければ、追われてもいなかった。
互いに逃げたつもりでいたのかもしれない。
私の反復が対称点となって逃げられずに追えずにいると思っていたのは、私ばかりで、寝入りに似た傾斜に沿って(と思っているのも私ばかりだが)、女の名は、消えた。


身の丈、という言葉にアナフィラキシーにも似た反発を覚えるくせに、身の丈に合った滅びを、私はその女に求めていたのかもしれない、と頬杖をついて思うことのできる土曜の午後だが、アルコールが足りない。
抽斗にも眠剤しかない。
眠りたくはないのだ。


ここ数日で記憶に残っているのは、冷蔵庫と壁の間に挟まって動けなくなった次男を助けたときの、重さと熱である。
次男は清澄で、底意地の悪そうな、美しい顔をしている。
焦りに泣き出しながらも、彼はどこかで、愉しんでいた。
だから私も、愉しかった。


私は家の中で迷う。
私には迷える場所が必要なのだろう。
西川徹郎を読むと、迷いの家に、帰ってこれる。


 


肉体をゆめゆめ蓮の葉が犯す

眼ニ刺サッタ山ノ秋津ヲ抜イテ下サイ

二階まで迷路は続く春の家


 


全句集、ほしいな。。

  1. 2007/07/21(土) 16:25:04|
  2. libro
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Rammstein

右の鼻孔から、卵黄の色合と粘度の洟が出る。
1週間ほど続いている。
何かが膿漏している。


歯の根が萎縮する感覚がある。
私は既に10数本の永久歯を喪っているが、下の前歯4本が断続的に、ぐらぐらと揺れ、根元からするっと抜けた季節と、痛みの鈍さが似ている。


当時のように夜毎失禁するような呑み方は無論していないのだが、ふと思い立って節酒を試みる。


禁酒・断酒とならないのは、そうすることで自律神経がまったく失調することが目に見えているからで、それでも尚踏み切るほどのことではないと思っているからだが、缶ビール500ml×1本に抑えることは容易くても、やはり、不眠は起こる。


先日、脛骨と大腿骨が乖離して骨の欠片が膝部のゼリー状の組織の中に散ってしまい、半年間ほぼベットの上にいた、という上司を見舞ったときに、もしそうなったらドストエフスキーをひと通り再読して、自費出版でノワールを書いていた知人からセリーヌの全集を借りてきてもらおうか、古井由吉を片っ端から再読もいい、それとも、とノンシャランに考えたりしたものだったが、眠れぬ夜が続くというのも、歩けぬ日々が続くのとさほど変わりはない。


とりあえず手元にあった棟方志功の自伝を読む。
何度か泣いてしまい、なかなか進まない。


そこで最近なぜか繰り返し聴いているのが、Rammstein。
動画をどうぞ。
Rammstein/Rammstein



数年前に流行ったものを今更気付いて一人できゃあきゃあいうのが、最近の私の傾向であるが、これもそう。
平均身長2m弱のジャーマン・インダストリアル・メタル、というイコンが、その辺にいるアンちゃんはステージに上がってはいけない、という怒りに似た感情が基底にある私にとって、まさに正鵠。
マンガみたいな面子が揃ってこそ、ロックバンド。


唄い終わるまで身体の炎を消さない、という正しさにうっとりする。
ワンコーラスで脱いでたら台無しなのよね。
こんなにマッチョなくせにマッチョさに胸焼けしないのは(本来私はマッチョほど苦手なものはないのだが)、この機微を熟知している繊細さからくるアレンジの妙だ。


 



明け方にまどろむと、きまって淫夢を見る。
今朝は半獣半人(牡鹿の上半身に人間の女性の下半身が付いていて、下半身の足首から下は兜蟹のようだった)の前脚に頬骨を砕かれながらも、深く愛し合った。

  1. 2007/07/12(木) 01:00:55|
  2. musica
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Amazing PAIN for you




以前、帰宅してテレビを点けると、鬼束ちひろがSmells Like Teen Spiritをチェロとピアノの伴奏だけで唄っていて、その圧倒的な気色悪さに、バーホーベンのスターシップ・トゥルーパーズと同質の崇高さを感じて、食卓から拍手を送ったことがある。


亜矢において問題なのは、あまりに美しい、ということである。


自傷的女性シンガーソングライター、というのは日本の伝統芸だが、グランジ、というジャンルがシアトルで規定された10年ほど前に、その普遍性に慄然とした記憶がある。
表現者と芸人をひと括りに「アーティスト」と呼び、それがイコール「商品」であることに、今更感情が昂ぶることもないが、私にとってグランジとは、芸人であることへの反発を無謀にも諦めないこと、なのである。


しかし女性がそれをやると、美しくなくなるのだ。
女性の唄は究極的に「媚び」でなければならない、とか思っているわけではなくて、逆に唄に「生身」を篭めることができるのは女性だけだと思っているのだが、どうしても、己の皮膚の内側を唄い、それによって皮膚の外側に傷を負うような女性歌手に、美しさ、を感じることがなかった。


情念、という抽象まで行っちゃってくれてれば惚れることができるし、己を戯画化することの芸術性に気付いて、確信犯的にそうしてくれれば、ファンになれる。
どちらかでなければ、迫力に押されつつも、首をかしげるしかできないのだ。
つまり、気色悪い、のである。
これは私見ではなく男性の自然な反応だと思うが、どうかしら。ご意見ください。


さて、亜矢はそのどちらでもないのに、美しすぎるのである。
「だってあたしの人生 語呂合わせなんだもん」とは椎名林檎の名文句だが、語呂合わせにならない人生への違和を、表出しきる方法を、ここまで見事に実践しているのは、私には奇跡としか思われない。


身につまされる歌詞ではない。
歌詞だけを読ませようとしていない潔さがあるのは、これほどシアトライズされた音を出していれば当然といえば当然なのだが、一つ一つの言葉に重きを置かない、という、重きを置きすぎた果てにしか至れない境地に、無自覚に至っているように思われる。
青森で活動している、コスモスという敬愛するバンドのボーカルの方が、つい先日三上寛に「テーマがあればテンションなんてどうでもいいんだよ」と云われた、と日記に書かれていたが、まさに、それだ。
彼女はテーマだけで、唄っている。
ここでいう「テーマ」とは、誰でも掲げられるものではない。
私が最近よく使う「ヴィジョン」というものが、誰にでも見える景色ではないのと同じだ。
テーマ/ヴィジョンに至っているか。
表現者に必要なのは、それだけだと私は思っている。


あー、やべー、超エモい。とだけ思っても結構。
ちょっと観てみてください。


禁じられた歌
選択の朝


スーツケースから身を起こすときの軸が、さ。
マイクに戻るときの膝の角度が、さ。


私を以前から知っている連中は、お前ああいう顔大好きじゃん昔から、とか云うんだろうけど。
その通りなんだけど。

  1. 2007/07/01(日) 01:38:17|
  2. musica
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Aqui esta:
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この夜、凶なきか。
日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。
深更に魘さるるか。
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