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Dirge

Death in Vegas『Dirge』のPVを観ながら、露悪のボーダーについて思う。



露悪は偽善と表裏であり、どちらもソーシャリティを喪うことへの恐怖から生じる。
だが善を演じることを首尾することによって偽善が限りなく善の近似値をとることに対して、悪を演じることが内的な破綻を生じやすいのは、何故か。



人は生まれもって善であるとか悪であるとか、そういう詮ないことを論じるつもりは、当然ない。
生来の善悪はそのどちらでもなく、善は定点から眺めやすいからという理由だけでおおよそ人は悪である、という至極曖昧な観点を持つことに、疑問を抱かなくてもいいと私は思っている。



私はグロテスクなものが好きなわけでも猥褻なものを崇めているわけでもない。
「枢」にあたる音や色や肉体を、都度ランダムに選び、消費しているだけだ。
私の枢が「一般的な美」(というものは、悲しいが存在する)と大抵対極にある、という
ことに、時折心細くなって、こうした呟きとなる。
視点が、自他の境界を融通してしまうのである。



小説の修行をしていた時分に、師に幾度も窘められたのは、視点を固定せよ、ということである。
これは「ドラマ」を創る上でもっとも基本的なことであり、脚本家としてテレビの黎明期を疾駆した師の言葉としては、珍しくありふれたものであったが、師が私を通して若い連中に伝えたかったのは、「ドラマも満足に創れないくせに芸術家ぶるな」ということだったように思う。



視点は、狂う。
私の眼が彼女の眼となり私を見つめ、やがて彼女を通した先にある森の木々に眼が偏在し、私と彼女とを、ひいてはその時間軸全体をも、同じ層で見つめる、ということが、芸術に殉じて生きている者に限らず、我々には頻繁にあり得る。
眼はそれ自体が入れ子であり、我々が他者を、とりわけ他者の肉体を求めるときに感じる入れ子に対しても、一気に貫通することもあれば、間隙を埋めるように粘着もする。
だがそれを更に離れた定点が、おそらく今の私に必要なのだ。



おそらく私はいま見えているものを無心に追うべきなのだろう。
私の視神経は、疼きに繋がっているのだから。

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  1. 2007/06/11(月) 23:17:05|
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深更に魘さるるか。
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