スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

nothing in particular

「How Soon is Now?」における「nothing in particular~」の発音を、モリッシーとエレーナ・セルゲーエヴナ・カーチナとで比べて過ごした。


性的なアイテムとしてカーテンが挙げられることは多いが(結婚するまでカーテンの付いた部屋に住んだことがなかった、ということが、私の性的欠落の、ひょっとしたら最大の要因なのかもしれない)、モリッシーの声は、男女の狎れた匂いが部屋の外にあふれ出そうとして、カーテンが苦しげに膨らんでいるさまを連想させる。
エレーナ・セルゲーエヴナ・カーチナ=レナの声は、カーテンの重さを跳ね返すことができない。
この曲をカヴァーするなら、ユーリヤ・オレーゴヴナ・ヴォルコヴァ=ジュリアが、モリッシーと同じメロディーを完璧に追ってみるべきだった。


それでも、Cメロの作り方と、そこに付与されたジュリアの吐息には、膝下を痺れさせるものがある。


そう、私は今更、t.A.T.u.を熟聴しているのである。




S/M/D/Sの話はまだ終わっていないのだが、繰り返すと「論証」という、私がその背骨を持っていないものに至りそうなので、よしておく。
10歳のときに父の部屋の押入で見つけた「SM秘小説」が私の底流であるので、おいおいまた触れざるをえないときがあるだろう。


さて、亜矢、という歌手について、詳しい御仁がいたら、教えてください。
You Tubeで偶然見つけて、アメリカナイズ、とタカを括って、時代が時代なんだからこういう子が出てきて当然じゃん、と客観していたのだが、まずい、これは本当に本物かもしれない。


西川か久征なら知ってるか、連絡乞う。
とりあえず「禁じられた歌」を衝動買いしてしまいました。

スポンサーサイト
  1. 2007/06/29(金) 01:44:57|
  2. musica
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

SM≠DS

ロックシティ、という噴飯なネーミングのショッピングセンターが近所にオープンしたので(実際はROCKではなくLOCなのだそうだが)、ストレイキャッツの「ロックタウンは恋の街」を口ずさみながら歩く。
「Make 'em scream and shout」という部分が「結構好きなんちゃう?」としか聞こえないので、聞こえるまま鼻歌を唄う。


俺Sだからさ、あたしドMなんです、という会話を耳にするたびに違和感を覚えるが、否定する気持にはならない。
「結構好きなんちゃう?」「バカ……」という会話が成り立つSとMの関係ほど、建設的でハピーなものはあるまい。
アインシュトゥルツェンデしないノイバウテンである。
恋の街である。


SもMも思い切り乱暴に云えばフェティシュなのであって、窃視と露出がそうであるように、どうしても同根であり、フェティシュの語源は護符崇拝、すなわち帰依すべきものの代用品に対してそれ以上の崇拝をしてしまう、ということであるので、個人が個人へ埋没してしまわない効用も、関係を潤滑にする効用も現代では認められているし、それを標榜することも全く市民権を得ているのだから、大いにSと云いつつふと柔和なところを見せてみたり、Mと云いながらしなを作ってみればいいのだ。


が、私はSだMだという前に、至極単細胞に(単細胞生物が膜を破って融け合うヴィジョンを長く理想としているが)、淫乱、それだけであるので、どちらかの擬態を見せることはあっても、己をどちらかに規定することができない。
自分をどちらかだと己の裡でしてしまえば、行動や思惟が限定されるので、自律にもなるし、余裕にもなる。
私はそもそも自律にも余裕にも、あまり興味がない。


かといって、加虐と被虐という嗜好自体が浅薄だ、などというつもりはない。
サディズムとマゾヒズムとにカテゴライズすることに、違和感を覚えるのだ。
サド侯爵とマゾッホ男爵の講釈をしても仕方がないが、マルキはサディストではないし、ザッハーもマゾヒストではない。
加被虐を「嗜虐」と括ればいいというわけでもない。


藤沢周という作家のデビュー作に、「DS」という短編小説が併録されている。
ドミネーション・サブミションの略だ。
支配と、服従。
これこそ、SMよりもよほど具体的に、我々を性の奈落へ近づけてくれる二極なのである。 


加虐というチリチリと焦げるような快感は、支配という透徹した=戻りようがない高みへと結晶させる。
被虐というぬるぬると溶けるような快感は、服従という原初の=戻りようがない地平へと浸透させる。
こうしてはじめて男女は、人と人とは「関わる」ことができるのではないか、と、
こんなことを考えているからいつでも私は、喉が渇いている。

  1. 2007/06/28(木) 01:32:17|
  2. sexo
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:5

Motherfucker=Redeemer

近所にあるワンダーグーという複合メディア屋のCD/DVDレンタルコーナーがツタヤのフランチャイズとなり、立ち寄ってみるとポストロックコーナーが設けてある。


ツタヤにポストロックコーナーがあるのは驚くべきか否かは知らない。
郷愁にも似た思いでCANやモグワイを手に取り、手書きPOPに「ダボ鈴木」とあるのを無表情でやり過ごしたり、アルゼンチン音響派はさすがにないな、こういう午後にはフアナ・モリーナを聴きながら寝たいな、なるべく一人でじゃなく、などと思いつつ、現在も活動をしているアーティストの作品の中から、直感で一枚選ぶ。



Godspeed You! Black Emperor 『Yanqui U.X.O.』



バンド名は日本の暴走族のドキュメンタリー映画そのまま。
宇梶なんとけって俳優がいたところか。確か。
例えばスカルファックが流行っている旧社会主義国のネオアカドキュメンタリー映画、のようなものがあったとして、それを日本のバンドがそのまま自分達に冠するのを想像すると、それほど悪いセンスじゃないかもしれない、などと思った。
象徴とするには軽く、記号としてしまうにも少しずれている。そのずれが、悪くない。
抽象でも具体でもない。
その意味で「The Smiths」というバンド名はあまりにも見事だと思っている最近であるが。



ポストロック、とは誰が云い出したのか知らないが、既成の形式や分類から外れながら、そもそもそういうものを括った「ロック」という概念に無理やりねじ込むことができそうな、かつロックの大きな側面である商業性に乏しく(あるいは意図的に相反されていて)、いかにも深甚な意味がこめられていそうな、よって結果的に「芸術的な」音楽、を指しているように思える。
つまり、ポストロックが好き、などという可愛いくらいインテリなお兄ちゃんやお姉ちゃんは、手に負えない阿呆が大体だと、私は思う。
ロックの次に来る音楽、というのは私にとっても理想だが、パラダイムシフトはそう簡単に起こりえない。
ポストロック、と分類された音楽に私が期待するのは、純粋にオルタナティブであり、絶対的にパンクであり、圧倒的なインテリジェントを有し、同時に決してシンフォニックではなく、インプロビゼーションのようでいてその対極にあるもの、なのである。



このアルバムは、あっさりと、その全てを満たしている。
嬉しくて、哀しくて、苦しくて、冴えてきて、呑まれて、蘇る。
永遠に密集していく闇vs不屈のちっぽけな光、とは彼ら自身の言葉だそうだが、その言葉自体はとても陳腐だと思うが、まさにその通りなのである。
闇の枢、その鏡像としての光、のような気もするが。



今日は「日本ボディーペインティング美術館」というページを偶然発見した喜びを書こうとしていたのだが、やめた。

  1. 2007/06/25(月) 01:39:34|
  2. musica
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

sangre y huesos

崔洋一『血と骨



私も、あなたの隣で眠る男も、金俊平と、何も変わらない。
特別ではない男の物語だ。
ここには何のポエジーもない。
寓話であるが、神話ではない。


たけしから放たれたのは、暴力ではなく、愁い、それだけである。
オダギリジョーは、無意識のうちに驚異的なコンセントレイションを得ることができる稀有の才能の持ち主だ。浅野忠信が一時期だけ持っていたものを、持ち続けている。
中村優子には、久しぶりに、やられた。
画面越しの女の貌や挙措に足許を掬われたのは、ハモン・ハモンのペネロペ・クルス以来かもしれない。


細部の演出のムラは、どうだっていい。
尺を間違えているように思えたところもあったが、崔洋一がわざとそうしているだろうから、それもどうだっていい。
たけしの大阪弁だけは、本当にひどかったが、それさえどうだっていいと思えるのは、紛れもなく「映画」だけが成し得ることを、全うしていたからだ。


豚を屠るための包丁を研ぐたけしの貌。
不随になった中村優子の身体を金盥で洗い、ため息をつくたけしの貌。
あれは、私の中に一生残る。
いや、あれは、私の中にあって、私が隠している貌なのだ。


本棚に原作を探すが、なぜか上巻しか見つからない。
まあ、それもどうでもいいや。
数年ぶりに梁石日に呑まれてみることにする。

  1. 2007/06/21(木) 01:55:36|
  2. cine
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

You know you are right

長男の4歳の誕生日。


第二の故郷横浜の(第一は新大久保で、第三は池袋である。出生地も居住地もランクインしないのが、私である)、アンパンマンミュージアムに連れて行こうと、休みを取っていたのだが、長男の急な発熱で見送った。


微熱程度にひいた午後に、龍ヶ崎市のトイザラスへ連れて行く。
目移りして眼が回っていた長男に、ロボザウルスを勧めたが、気持悪がられた。


バイキンマンの縫いぐるみと、機関車トーマスのキャラクターにおける善良なバスと邪なバスの二台のミニカーと、仮面ライダー龍騎(これについては改めて書かなければならない)における銃を持ったキャラクターの塩化ビニル人形を買った。


帰路に寄った蕎麦屋で、私は山芋蕎麦を、妻は鶏の照焼丼と冷やし狸蕎麦のセットを所望した。
暑い午後だった。
注文をすると、セットには暖かい狸蕎麦しか付けることはできず、冷たい蕎麦なら盛になるという。
子等は、飯を喰いたいだろうと私は思っていた。
妻は冷やし狸蕎麦を喰いたがっていた。
それゆえ、私が鶏の照焼丼と盛蕎麦のセットを頼み、妻が希望通りに冷やし狸蕎麦にすればよかろうと思っていた。
私が盛蕎麦を喰い、丼を子等に与え、妻が冷やし狸蕎麦を食えばいい。
そう提案したところ、私がセットにするから、お父さんはほんとは食べたい山芋蕎麦にすればいいじゃない、妻が云う。
子供達は、山芋にかぶれる。
実際に、私は山芋を絡めた冷たい蕎麦が喰いたかった。
それゆえ妻の判断にあっけなく同意した。
だが、冷やし狸蕎麦とのセットが出来ぬと知った妻は、じゃあセットじゃなく冷やし狸で、と云ったので、私は愕然とし、絶望した。
ここで愕然・絶望する己を気味悪くも思ったが、とにかく、言葉を喪ってしまった。
私は私の喰いたいものなどどうでもよく、子が飯を喰いたいのは顔を見てわかっていて、妻の嗜好も優先したかった。
妻は己よりも子供よりも、私が喰いたそうな山芋を優先させた。
結果、子供らは喰いたい飯を喰えなかった。
妻は所望の品が届いたが、私が鬱屈しているのをみて、味もなにもないらしかった。
私は苛立ちからくる吐き気を、山芋の絡んだ蕎麦で押し戻していた。


You know you are right、なんて、あんまりじゃねえかよ。
俺は女も子供も大好きで、だから、いつも苛立っている。
逃げやがって。
俺はまだ、逃げない。

  1. 2007/06/19(火) 23:59:13|
  2. diario
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

Disco/Juego

1時間半ほどBGM係をした。
備忘録。


 


『Underground System』(Underground System)Fela Anikulapo Kuti & Egypt 80


『Dirge』(The Contino Sessions)Death In Vegas


『New Toys』(Kick Up The Fire, And Let The Flames Break Loose)The Cooper Temple Clause


『Los Condenaditos』(La Marcha Del Golazo Solitario)Los Fabulosos Cadillacs


『Cruisin For The Bruisin』(Bonk)Flat Earth Society


『Big Brother』(ビストロン)核P-MODEL


『The Great Curve』(Remain In Light)Talking Heads


『Tielle Heitetty』(Vihma)Varttina


『Coco Medley』(Chuva Em Po)Think Of One


『Dead』(Doolittle)Pixies


『Dreadmonboogaloo』(XXX)ZZ Top


『Laut Und Leise』(Eggs And Ashes)X-Legged Sally


『Up To The Sky, Down To The Earth』(Master Muscians Of Jajouka)Talvin Singh & The Master Musicians Of Jajouka Feat. Bachir Attar


『Pansa Pansa』(Underground System)Fela Anikulapo Kuti & Egypt 80


 


リタを噛んでいて、もの凄く気持がよかった。
ステージでは踊るがフロアでは踊らない、というディスポジションである私にとって、DJブースは心地よい閉所で、最高のダンスホールでしたとさ。


引き潮に、まだドランクしているが。 
クリエイティブなほどブルーだが。

  1. 2007/06/18(月) 23:25:09|
  2. musica
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

MONA LISA OVERDRIVE

教えて欲しい 聞かせて欲しい
汚れているか おかしいか
それでもかまわないか
――BUCK-TICK『Mona Lisa』



36時間ぶりに家に帰ると、玄関の水鉢が百合になっていた。



食事中、妻は公園でセックスしていた高校生カップルを目撃した話を続ける。
子供たちにはその辺の教育をお父さんにちゃんとしていただかないと、と云うので、そうだね、やっぱ「公」ってことを知らなきゃね、でも「午後の遺言状」がよくてそれがダメとは僕は思わないけどね、そん時の彼らは意外と敬虔な気持だったのかも知れないよ、獣性ってのも一種の敬虔だからね、などと適当な相槌を打つ。



経験がないことであるから、羨望がないわけではない。
むしろ、海岸に停めた車の上(ボンネットではなくルーフの上とのこと)で、とか、常磐線荒川沖駅のホームで、とか、母校に忍び込んで渡り廊下で、とか、親戚に電話している最中の彼女に、とか、全て最近若者達から訊いた実話現代であるが、至る若気への自負が喪われつつある最近、そうした時間はもう取り返しがつかないのだろうか、などと適当に思って、苦く笑っている。
それらと比べれば、経血でメイキャップをして跳ね回り、壁に紅いドラえもんの絵を描いた私の経験など、取るに足らない。



だが時折、身動きがとれなくなるほど、切実さに内から襲われることがある。
切実さは蒼く鋭く、冷たい塊である。
眼に見えれば美しいのかもしれないが、眼には決して見えないから、醜怪な澱として胸の奥に尖る。
その蒼色が、この日記の唯一のテーマだ。



引用した曲の歌詞では、「KrausのHyper opera voice song」ってとこもたまらん感じ。
778ちゃん、見てたらウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」、貸して。



毎晩どうやって眠っていたか、思い出せない。

  1. 2007/06/16(土) 00:30:21|
  2. diario
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:5

姑獲鳥

何処で何をしていようと、許し愛し続けざるをえない歌手に、沢田研二、世良公則、もんたよしのりがいる。


何処で何をしていようと、許し愛し続けざるをえない俳優に、石橋蓮司、寺田農、清水紘治がいる。


何を撮ろうと許し愛し続けざるをえない監督は、実相寺昭雄しかいない。


おそらくこれまでで最も多く観た邦画は、実相寺昭雄『悪徳の栄え』である。
デカダンスの濃度だけで云えば、インテリ学生独りの部屋で煮詰まった程度の濃さである。
だが、役者が違う、のだ。
役者が違う、以上の賛辞を私は知らない。


堤真一、永瀬正敏、阿部寛じゃ、実相寺に演出のしようがない。
原田知世は恋人に糞を喰わせることで有名だが、糞を喰わせることが芸の肥にはならないことを、悲しいほど澄んだ顔で露顕させている。


脚本もひどいが(マクロな抑揚をコントロールすることに、自覚がない。それだけだ)、そういう問題でもない。
京極夏彦本人は、ご満悦なのだろう。
一度南池袋で見かけた京極は、魁偉な容貌、というよりも水死体の巨大な陰惨さをレザーに包んだ、それは超然と気味の悪い男だったが、プロ作家、という妙なステータスを見事に纏っている点では今も何の変わりもない。


役者が違う、のだ。
それほどまで悲しいことは、またとない。



  1. 2007/06/13(水) 00:06:16|
  2. cine
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

Dirge

Death in Vegas『Dirge』のPVを観ながら、露悪のボーダーについて思う。



露悪は偽善と表裏であり、どちらもソーシャリティを喪うことへの恐怖から生じる。
だが善を演じることを首尾することによって偽善が限りなく善の近似値をとることに対して、悪を演じることが内的な破綻を生じやすいのは、何故か。



人は生まれもって善であるとか悪であるとか、そういう詮ないことを論じるつもりは、当然ない。
生来の善悪はそのどちらでもなく、善は定点から眺めやすいからという理由だけでおおよそ人は悪である、という至極曖昧な観点を持つことに、疑問を抱かなくてもいいと私は思っている。



私はグロテスクなものが好きなわけでも猥褻なものを崇めているわけでもない。
「枢」にあたる音や色や肉体を、都度ランダムに選び、消費しているだけだ。
私の枢が「一般的な美」(というものは、悲しいが存在する)と大抵対極にある、という
ことに、時折心細くなって、こうした呟きとなる。
視点が、自他の境界を融通してしまうのである。



小説の修行をしていた時分に、師に幾度も窘められたのは、視点を固定せよ、ということである。
これは「ドラマ」を創る上でもっとも基本的なことであり、脚本家としてテレビの黎明期を疾駆した師の言葉としては、珍しくありふれたものであったが、師が私を通して若い連中に伝えたかったのは、「ドラマも満足に創れないくせに芸術家ぶるな」ということだったように思う。



視点は、狂う。
私の眼が彼女の眼となり私を見つめ、やがて彼女を通した先にある森の木々に眼が偏在し、私と彼女とを、ひいてはその時間軸全体をも、同じ層で見つめる、ということが、芸術に殉じて生きている者に限らず、我々には頻繁にあり得る。
眼はそれ自体が入れ子であり、我々が他者を、とりわけ他者の肉体を求めるときに感じる入れ子に対しても、一気に貫通することもあれば、間隙を埋めるように粘着もする。
だがそれを更に離れた定点が、おそらく今の私に必要なのだ。



おそらく私はいま見えているものを無心に追うべきなのだろう。
私の視神経は、疼きに繋がっているのだから。

  1. 2007/06/11(月) 23:17:05|
  2. libro
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

hostel

映画『ホステル』を深更に。


ブラスチラバのプラハ女(金髪)の、頭頂から外顎への長さと髪型と眼と長躯のバランスがよかった。
という感想だけで留めておきたい、向精神毒にも向精神薬にもならない映画。


肉体の反応が過敏な状態で観たのだが、少し指先が痺れただけで、足許を掬われるような(あるいはアキレス腱のみならず足首を切断されるような)、過剰な痛みと表裏の快楽と、移動の自由を奪われる絶望と表裏の快楽を、覚えることは、全くなかった。


 タランティーノはパルプカルチャーの体現者であって、それ以上では決してない。
と思ってはいたものの、一瞬でも新しい痛みを露現させてくれることを期待して観ただけに、肩透かしだった。


肉を刻む慾、というのはある程度普遍性を持っている。
肉体を損壊したい/させたいという慾は、三次元に生きる我々を、絶対的な地平へ導いてくれる、という気にさせる。
我々は自ら死にたくも誰か殺したくもないが、立って歩き喰いセックスし眠り夢見、また立ち上がることに、居心地が悪い生き物なのだ。


 他者の肉体の損壊だけを望み、またその対象者のステータスにバリューがある、という秘密クラブは、東欧かどうか知らないが、どこかにきっと存在しているのだろう。
だがいかに被害者の人生が多層であろうと、加害する側が一面である以上、「ドラマ」として成り立たない。


 日本の「ギニーピッグ」の方が、何倍も見る者の立場を危うくさせる。
フランスの「イン・マイ・スキン」の方が、サディズムでもマゾヒズムでもなく、何の背景も必要としない(サド・マゾを右利きか左利きか程度の基準で隔てて安心しようとしている日本の現況は危惧すべきものだと思うが、それについてはまた改めて)、肉体を壊すことの真実に迫っている。


エンタテイメントにも、なり得ていない。切り落とした指が重力を帯びる、とは思わないが、肉として扱ったら肉は肉のままなのだ。


 最近つとに、己が横暴なマゾヒストであることを自覚するようになった。

  1. 2007/06/10(日) 15:40:51|
  2. cine
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

Great Curve

She is moving to describe the world
Night must fall now-darker, darker.
She has messages for everyone
Night must fall now-darker, darker.
She is moving by remote control
Night must fall now-darker, darker.
Hands that move her are invisible
Night must fall now-darker, darker.

――Talking Heads『The Great Curve』


 


17日のSOULAVYワンマンのオープニングDJの為にCDを3枚買う。
全てmp3でPCに入っているのだが、ジャケットも含めた質量が、どうしても手元になければならないように感じた。



Death in Vegas『The Contino Sessions
Talking Heads『Remain In Light
核P-MODEL『ビストロン



フィンランド、モロッコ、ブラジル、ベルギー、アメリカ、ノルウェー、イギリス、アルゼンチン、日本の音に、明日入手できるフェラ・クティの遺作とフランス・ギャルのベストを加えて、90分のリストが揃う。
(と書いてみて、今回のリストから東欧が抜けているのに驚いた。)
45分でどれをどの順で流すかは、ライブとする。



全てストラヴィンスキー『春の祭典』に含まれていそうなエッセンスだが、そんな寂しいことは云いたくない。
宇宙の統一よりも、ワープの偶発が欲しいのだ。



音への飢えが生じているわけではない。
ただ私の奥に澱む穢れを、音が弄んでくれることだけ、知っている。



例えば私は、先日まで身近で働いていた、街ですれ違えば振り返るほどの美女だが、どうしてもアタッカーズから『蛇縛の受胎フライト』とかいうタイトルでDVDをリリースしていそうに思えてしまう女性の貌を仔細に思い描いて、いますぐ自慰をすることができるが、この子の血液をバケット一杯浴びたい、と思った女性の貌が、どうしても浮かばない。



音だけが、どちらの私をも吹き飛ばしてくれるのだ。



妻のグレートカーヴを触れるか触れぬかの臨界で、象って、呑みこんだから、眠る。

  1. 2007/06/09(土) 03:20:17|
  2. musica
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

confusion will be my epitaph

Confusion will be my epitaph.
As I crawl a cracked and broken path
If we make it we can all sit back and laugh.
But I fear tomorrow I'll be crying,
Yes I fear tomorrow I'll be crying.
――King Crimson 『Epitaph』




友との長い夜があり、横浜での昼夜があり、姉の手術が成功して、両親について妻と見解を一にし、死んだQと再会した5月は、あまりに幸福で、私はそれにまんまと甘んじた。


何度も正気を喪う機会があったことが、何よりの僥倖である。
くるい、は、酩酊の果てにあるわけでも神経を苛むに至る時間から生じるわけでもなく、
いまここに、生暖かい膜を一枚隔てて、ある。


ecstasyとは、ラテン語で「今あるところからちょっと外へ出ちゃう」の意だとか。
恍惚、とは妙訳だが、『恍惚』という言葉には、か細くも根がありそうだ。
射精だけでは、『ちょっと外へ出ること』はできない。
何かをクリエイトするか、
他人を愛するか、
それしかそとに出る術はないと、私は長く思っている。


蔑んだ眼で俺を見てくれ、と頼んだら、そうしてくれた子がいた。
ちょっと外に出そうになった。


18歳の頃の音源を、繰り返し聴いている。
4弦を弾いているのが己なのだが、それを主観しようと客観しようと、
アグレッシブでプログレッシブでフラジャイルな、ベースレスなバンドとして、
The Boogie Woogie Whiskyは屹立している。


はみだし者、ってそういう意味か、タマガワよ。


楽になった。
アスルサングリエント、レコンキスタ。


  1. 2007/06/07(木) 00:49:11|
  2. libro
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0







soy


Aqui esta:
アスルサングリエント

Me llamo:
慈姑(クワイ)

A mi mismo:
この夜、凶なきか。
日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。
深更に魘さるるか。
あやふきことあるか。

twitter

hydlage reload

cronica

archivo

comentario

tb

buscar

calendario

05 | 2007/06 | 07
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

conexion

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。