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2:37

天使と悪魔が同居している山小屋にはシャワーがついてない
だから二人はいつも仲良し
それがどうかしたのかと尋ねられたら
俺はそいつに自殺を勧める以外、手がなくなる
だからそんな悲しいこと言わないで
――Blankey Jet City 『プラネタリウム』

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嗅覚が幼い頃から弱く、そのくせ鋭敏だ。
食事とセックスの快楽の大部分をあらかじめ喪っているかもしれず、それでも届く香気は、脳に直に染みて、消えない。
私の表層的なペシミズムも、同根なのかもしれない。
好きなのはプロデュースが見事な化粧品の匂いと、その奥の膚の匂いだ。
酩酊の先に嘔吐が待つように、匂いの陶然の底には、嘔吐が蟠る。
自家中毒する。


映画の感想を。



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素粒子 オスカー・レーラー 2006年 ドイツ

 
ミシェル・ウェルベックの原作は、全ての物語がこの結末になることを望んだ唯一の小説である。
これまで私がここに書いてきたことは、殆ど全てがこの小説への追想である。

ドイツで映画化されたことは随分前に知っていて、アナベル役がフランカ・ポテンテであることも併せて(私は女性の貌が大好きだから、どうしても彼女の貌に馴染めないのだ)、機会があれば観ようとだけ思っていた。
傑作ではないが涙が止まらなかった、という内容の中原昌也のコピーがあったが、果たして、その通りだった。
アナベルの悲劇が最後まで描かれておらず、それこそがミシェルにクレスデン・ノートを完成させ、物語を結末へ導くのだが、それを大きく省いている(示唆は残していた)。
だがその点に固執してこの映画を否定する気にはならない。
監督は原作を、理解している。
モーリッツ・ブライブトロイのブルーノと、マルティナ・ゲデックのクリスチアーネが、まさにブリュノとクリスチヤーヌだったのだ。

映画は原作をなぞる必要もなければ、覆す必要もない。
オスカー・レーラーは、一からきちんと作った。
彼はウェルベックではない。
彼なりのテーマで映画を作り、そのテーマは、ウェルベックと少しだけ共鳴していた。
それだけで、素晴らしい。


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明日、君がいない ムラーリ・K・タルリ 2006年 オーストラリア


立ち上がれないほど衝撃を受けた理由はわかっている。
創らなければならないものを全力で創ろうとし、完成した、という奇跡を眼にしたからだ。
10代の監督が、現実を描こうとして、描いてしまったのだ。
ガス・ヴァン・サント「エレファント」なんかと比べようがない。
結末、彼女が死んだ理由は、「理由」などという陳腐なものと別のレイヤで理解されなければならない。
無比の映画、である。


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ベロニカは死ぬことにした 堀江慶 2005年 日本


以前「ゆれる」の感想で、誰かとセックスしている真木よう子はいつでも観たい、と書いたが、正直なところ、真木よう子はいつまでたっても私にとって曖昧なのである。
良くも悪くも濃い俳優を集めすぎた中に彼女は埋没していて、テーマの脆弱さ(スーサイドの本質において上述「明日~」と比較してみるとよくわかる)も相俟って、日本のインデペンデント、という括り(括ってしまっても乱暴にならないところが絶望的なのだが)で、映画は進んでいく。
吹雪ジュンは映画を演じようとしていて、市村正親と荻野目慶子と中嶋朋子が舞台を演じようとしていて、監督がそれをまったく制御できていない。
何よりもスコアが最悪で、音を消して字幕で見たいと思った(そうしてしまうと山口とものパーカッションが聴こえなくなってしまうのがすごく残念なのだ)。
真木よう子の乳房と自慰シーンばかりが話題になる映画で、私もそれを見て真木よう子を確かめようとしたのだったが、果たしてそのシーンのみが突出した素晴らしさとくだらなさで、苦笑いさえできない。
が、憤りはない。
少なくとも、ヒロインは、物語によって変化した。
それだけではとても及第しないのだが。


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金曜は好きな女の子と銀座で飲んで、旧い仲間の家に泊まった。
土曜は自分の家でもう一人の旧い仲間とゴーオンイエローのポージングを真似て昼を過ごし、夜は裏ビデオの話をして過ごした。
日曜の昼に見送ってから月曜までは幸福な気分だった。
火曜は太陽に当たりすぎで、憂鬱で吐き気がした。
水曜からニーチェ「この人を見よ」を再々読。

酒が水のように旨い木曜の夜だ。

 

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  1. 2008/05/02(金) 02:17:05|
  2. cine
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Whatever Happened to My Rock and Roll

◆予定:12/29 BUCK-TICK 武道館


2階席今井側。
今年の年末武道館は「THE DAY IN QUESTION」ではなく、「天使のリボルバー」ツアーファイナル。
渋谷でのTHE BULLET CABARETのイベントと重なったが、悪いなショウゴ、今年はこっちだわ俺。
ニューアルバムが、ちょっと素敵だったし、武道館、行きたいんだよいま。すごく。


 


◆予定:2/24 コロッケ 土浦市民会館


ロマン優光のコラムで、コマ劇場でコロッケを観て笑い死にしそうになった、というのを読んでから、いつか観よう、コロッケ、と願っていた。
チケット発売日に妻が朝一で会館に(プレイガイドに、じゃないところが素晴らしい)電話し、4列目の中央を入手。
次の日に休みを取ろうかしら。


 


◆最近観た映画


9songs」Michael Winterbottom 2004年


端的。端々しい、と書いて、みずみずしい、と誤読したい。
ウィンターボトムのことを好きなのか嫌いなのかよくわからないのだが(珍しい「多作」の監督として、この人はもっと評価されていいのだろうが)、この70分は奇跡のようなものだ。
Franz Ferdinandがこんなにも格好見えるなんて、と思い(このバンドは皆童貞っぽくて気持悪かったのだ)、聴き直したら、やっとリードギターがやりたいことが、わかってきた。
Black Rebel Motorcycle Clubの2曲は、スペシャル。
匂いや膚の感触を憶えている、という冒頭のモノグラムは、ラストシーン、南極上空での「Beautiful!」に結晶される。
我々はまんまと騙されるのだ。
映画こそが至高の芸術である、と酔った眼で話してくれた女の人がいたが、この映画の、このやり方について考えると、そうなのかもしれないな、と思う。
(ウェルベックの『プラットフォーム』にインスパイアされた、ってのは本当なのだろうか。そうだとしたら、この人はちゃんと『読んで』いる)


 


The Dreamers」Bernardo Bertolucci 2003年


シェルタリング・スカイ以来のベルトリッチ。
シナリオが、というより台詞が、雑。
それゆえ、なのかなのかどうかはわからないが、ベルトリッチっぽさ、は十二分に出ている。
主演の3人は、とにかく褒めたい。
エヴァ・グリーンの乳輪と腰つきには、フランス女の匂いのリアリティ=夢がある。
目蓋の重さもいい。シャーロット・ランプリングのような妖怪に変化する資格を持った女の子だ。
ラストへのくだりはドタバタにしか見えず、ドタバタで終局させた以上「時代」も「土地」も「思想」も「青春」も吹っ飛んで、吹っ飛ぶことは吹っ飛ばそうとしているのならいいのだが、残念さ、ばかりが残る。


 


るにん」奥田瑛二 2004年


松坂慶子、という妖怪に涙する。
私が奥田瑛二原理主義勢力過激派であることは再三触れたかもしれないが、映画作家としての才能を讃えているわけではない(才能がないと言っているわけでもないが。実際時折だが、出色のカメラワークを見せる)。
妖怪を、操ることができる男なのである。
松坂慶子の膣に、頭から潜り込みたい、と思った。
「少女」の小沢まゆも、見事。


 


ゆれる」西川美和 2006年


音楽以外、完璧。
(非常に中途半端な贋ファンク。贋ジャズ=ラウンジリザーズなら、最高だったのに。)
完璧、という評価を私はよくするが、脳髄のずっと奥にある腺を、揺らしてくれたら、私にとっては完璧、なのである。
ミステリー、伏線、兄弟の相克のドラマ、真実、結末、それらが、映画の要素だとしても、映画の、外側にある髄、ではない。
外側にある髄から溢れたものが、全てを包む。
外側にある髄を目指して、言葉を選び、音を選び、光を選ぶ。
髄液は脳髄の奥の腺と共鳴し、染み、揺らす。
何が揺れているのか、など、知ったことではない――
それが映画を体験することだと私は思っていて、これこそ映画だと、思った。
誰かとセックスしている真木よう子は、いつでも観たい。


 


女ひとりを、一晩貸し切りたい。
知りたいことが、多すぎる。

  1. 2007/11/18(日) 01:00:58|
  2. cine
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un efecto mariposa

あの一言がなかったら、こう一言を添えることができたら、あの時駆けつけることができたなら、あの時殴りつけていれば、別れよう、と云えたら、別れたくない、と云えたら、と、魘されることが、ないわけではない。
だがそうした選択肢が刻々訪れようと、私を構成するエレメントにエフェクトはしないのではないか、という諦念を持っていて、それが果たして正しくても間違っていても、私には明日訪れる選択肢を、選ぶか、選ばずに委ねるかしかないのである。


何年か前に流行った映画「バタフライ・エフェクト」を深更に。
ギリギリまで編集を重ね、あの時間で一切の説明不足なしに、唯一の結末で(DVDボーナスの別エンディングは、案の定見なきゃよかったが)纏め上げたのはお見事。
運命によって転変する女の子はよく描けていると思ったのに対して、女の子の兄もまるで別人格になってしまうことには、致命的な手抜きを感じた。
チェーホフの「可愛い女」に描かれる、愛人が変わる毎に全く別のことを喋る女性こそ、可愛い女であると私が思っているせいでもあろうが、環境が変わることで友達の愛犬を焼き殺す少年が思いやり深い青年になるとは、どうにも信じられない(運命の転変で宗教と出会う、ことにしている一つのシナリオがあったが、それこそ手抜き以外の何物でもあるまい)。


だが、人が人を救う、ということの無理については、核心に触れていた。
人は偶然に人を救うことは出来る。
しかし必然に人を救おうと思ったら、ひと一人の命じゃ、とても足りない。
救う、を守る、としてもいい。
絶対に守りたい、と思ったら、まず己を消滅させることだ。
消滅しても、守れないことを、前提として。
それは彼女や家族の前からかもしれないし、この世からかもしれない。
愛し合う、ということが有り得ることだとしたら(私は、結局それを信じていない)、一緒に消滅できるのかもしれない。
「あなた」がいなくなっても、「私」に明日が来る。
その悲しみ以外は、センチメンタルだ。


日曜の午後は「坂のある非風景」というブログを読んで過ごした。
近所の子等の輪に入れずにしょんぼりと帰ってきた長男の、足を拭いた。
賭すことのほかにすべきことがないことがわかっていても、捨てるものの大きさに、血が凝る思いがする。そのままの気持で過ごしている。考えることを、耐えることで放棄している。


「THE BUTTERFLY EFFECT」をスペイン語にして(本来はEl Efecto Mariposaなのだろうが、"un"にするというエフェクトを、能動的に行った)この日記に冠するだけで、何かが変わるかもしれない。
何かが変わるかもしれない、と待っているには、臓腑がもたなくなってきた。
あなたは頭でばかり考える、と、何人の女性に云われようと、
私には考えることしか、できないのだ。
  1. 2007/09/24(月) 04:05:29|
  2. cine
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sangre y huesos

崔洋一『血と骨



私も、あなたの隣で眠る男も、金俊平と、何も変わらない。
特別ではない男の物語だ。
ここには何のポエジーもない。
寓話であるが、神話ではない。


たけしから放たれたのは、暴力ではなく、愁い、それだけである。
オダギリジョーは、無意識のうちに驚異的なコンセントレイションを得ることができる稀有の才能の持ち主だ。浅野忠信が一時期だけ持っていたものを、持ち続けている。
中村優子には、久しぶりに、やられた。
画面越しの女の貌や挙措に足許を掬われたのは、ハモン・ハモンのペネロペ・クルス以来かもしれない。


細部の演出のムラは、どうだっていい。
尺を間違えているように思えたところもあったが、崔洋一がわざとそうしているだろうから、それもどうだっていい。
たけしの大阪弁だけは、本当にひどかったが、それさえどうだっていいと思えるのは、紛れもなく「映画」だけが成し得ることを、全うしていたからだ。


豚を屠るための包丁を研ぐたけしの貌。
不随になった中村優子の身体を金盥で洗い、ため息をつくたけしの貌。
あれは、私の中に一生残る。
いや、あれは、私の中にあって、私が隠している貌なのだ。


本棚に原作を探すが、なぜか上巻しか見つからない。
まあ、それもどうでもいいや。
数年ぶりに梁石日に呑まれてみることにする。

  1. 2007/06/21(木) 01:55:36|
  2. cine
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姑獲鳥

何処で何をしていようと、許し愛し続けざるをえない歌手に、沢田研二、世良公則、もんたよしのりがいる。


何処で何をしていようと、許し愛し続けざるをえない俳優に、石橋蓮司、寺田農、清水紘治がいる。


何を撮ろうと許し愛し続けざるをえない監督は、実相寺昭雄しかいない。


おそらくこれまでで最も多く観た邦画は、実相寺昭雄『悪徳の栄え』である。
デカダンスの濃度だけで云えば、インテリ学生独りの部屋で煮詰まった程度の濃さである。
だが、役者が違う、のだ。
役者が違う、以上の賛辞を私は知らない。


堤真一、永瀬正敏、阿部寛じゃ、実相寺に演出のしようがない。
原田知世は恋人に糞を喰わせることで有名だが、糞を喰わせることが芸の肥にはならないことを、悲しいほど澄んだ顔で露顕させている。


脚本もひどいが(マクロな抑揚をコントロールすることに、自覚がない。それだけだ)、そういう問題でもない。
京極夏彦本人は、ご満悦なのだろう。
一度南池袋で見かけた京極は、魁偉な容貌、というよりも水死体の巨大な陰惨さをレザーに包んだ、それは超然と気味の悪い男だったが、プロ作家、という妙なステータスを見事に纏っている点では今も何の変わりもない。


役者が違う、のだ。
それほどまで悲しいことは、またとない。



  1. 2007/06/13(水) 00:06:16|
  2. cine
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