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所作

疑わしきは駅弁ではなくネェちゃんの仕草
御法度の禁じ手使うネェちゃんの所作

三上寛『駅弁』

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思っていたよりも俺は汚れていたと、顕かになる夏の床に羽虫。 黒。


山盛りのスパゲティに息継ぎをして、いちばん軽いサングラスを選ぶくらいなら、かけないことにした。


風邪が引くと喘息が残る。
発作は、仕方なくセクシーだ。


肉の重さと温かさ以外に、君が俺に与えられるものはないんだよ、とは云わなかった。


「所作」という言葉を、3度意識した土曜。


消毒の匂いと冷房の匂いと芳香剤の匂いが合俟った建物に入ると眼が潤む。


何を見ても、何かを思い出す。


イカ天、という番組については、フジ系の民放局がない青森県では後付の情報しかなかったのだが、宮尾すすむと日本の社長、という気持の悪いバンドの、二枚でどうだ、という曲の、タイトルだけは見事だと思っていた。
が、それは「避妊具を二枚重ねるからやらせてくれ」という意味だったと知り、憤りの芯が残る落胆に、煙草を繋いだ。
二万円でやらせてくれ、という意味だと思っていたのだ。
(郷里に帰って以前の恋人と打ち解け、いざというときに「今日はあぶない」と云われたあとの台詞が、二枚でどうだ、だった、はずだ。だから、尚更)


いいバンドを二つ観て、吐き気を覚えて帰ってきた。
「場所の所作」がなっていないのが、大嫌いなのだ。


女性のあそこに海の香を嗅ぐ。
海が好きな女性ばかり好きになって、決まってふられている。


芥川受賞以前の藤沢周で唯一読んでいなかった「ソロ」。
藤沢周に対して、私は批評眼を放棄する。
独力で世界を揺らがせようとして、失敗して尻をつく。
それこそが私であるからだ。


バタイユ「内的体験」(13年振りの再読)、古井由吉「辻」(初読)、スティーブン・ミルハウザー「ナイフ投げ師」(なぜか父親が送ってきた)を平行して読みながら、ひたすらに弦楽器に触っている昨今なのだが、澁澤訳のサド「ソドム百二十日」を、小田急線直通の千代田線で読んでいた。


ギアが、ガチッと、ニュートラルに。

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  1. 2008/07/13(日) 03:09:33|
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しばらく外で自慰をしていない。

駅であれ百貨店であれオフィスであれ、かつて私はいたるところで自慰をしていて、舗道もフロアもデスクも、射精と射精との間のモラトリアムであり、蟀谷がいつもいらいらと震えていた。
疼きによってそうしていたには違いないのだが、獣欲に突き動かされていた、というわけではない。
射精のあとには、初めて視力を矯正した瞬間の感動が訪れる。
眼を水のように光が満たして、溢れたあとの清澄さに、潤い、息を吐く。
その瞬間だけが欲しくて繰り返していた。
眼が濁るのが耐えがたかった。

つまるところ私は射精に中毒していて、それがいつの間にか、平気でいられるようになったことに、居心地の悪さを感じている。
何かが萎縮したか、飽和したか、凝固したか、腐敗したか。
破裂だけはしていないことを知っているので、具合が悪い。

セックスと自慰は射精において全く差異はなく、セックスが他者との交わりだというのは、それが好き合う相手であろうと、大間違いではないか、とぼんやりと考えていた。
唯一他者と交わるにはいわゆる「愛」が必要であり、それは私には無縁である、というのが、どういうわけか私の所与だ。
だから、破滅を司る、という意味のみにおいてセックスに憧れる。
子供の頃、「性奴隷がほしい」と切に願っていたが、社会性も言語も(その二つは、私においては同義ではない)それなりに得ても、何も変わっていない。
私の種から産まれた子らの存在は私の思惟の表層をレリーフするが、それを私は指でなぞろうとはしない。
己の麻痺を受容することにかけては、私は女神のようだ。
私はいつでも深く眠ることができる。

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最近嬉しかったのは、「坂のある非風景」のfavoriteに入れていただいたことだ。
Mさんは私をわかってくれている、などと云うつもりは毛頭ない。
病的
、と書いていただいたことが、ただ嬉しかった。

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安達哲「お天気お姉さん」を数年ぶりに買い直した。

何てドラマティックなんだろう。
以前通っていた文学学校にて、出海溪也という詩人の講演があって、詩はメタファではなくアレゴリーであるべきだ、といった内容だったのだが、これこそまさに、アレゴリー=寓話である。
仲代桂子は、偏在するのだ。



通勤途中に森巣博「神はダイスを遊ばない」を読む。

下品。
常打ち賭人、として生き残ってきた己を、負けの必定を語ることによって、フラジリティの衣を纏いながら正当化している。
こういう人は文化人めいた仕事を好むんだろうな、と思っていたら、案の定そういう著作も多いらしい。
そもそも確率の劣位で賭博をカテゴライズしている時点でうんざりだ。
底の浅い語彙にも苛立つ。
ただ、被虐のループから脱する麗人、という戯画を傍から描ける男は、この人ぐらいなのかもしれない。



若合春侑「蜉蝣」をブックオフで。

伊藤晴雨で一本書け、と云われたら誰でも思いつくような筋であり、特に結末は非常に残念だが、この人は決して男には書けず、女である己と戦っている女にも書けない「女」を書く。
旧漢字と旧仮名と、肛門と生傷を剥き出しにするやり方で、読者にフィルタをかけている(おそらくそんなつもりはないのだろうが)のも小気味いい。
本質的にエンタテイメント作家、という希少な人だと思う。

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ごく最近恣意に選んで読んだ上の三作には全て「被虐のループ」が登場する。
一度凌辱されると、それを知らぬ他者からもまた凌辱されてしまう、というものだ。
少し前に韓国で同じような事件があった。
こうした被害者は女性であることが多いから、報道は同情を集めようとし、それにより凌辱者が裁かれることに何の異論もないが、暴力の誘発性が高い個人、というのは確かに存在していて、それは男性であることもあるし、国家であることもある。
人間の正体、などと云ってしまえばあらゆる報道と同じく何も結ばないものになってしまうが、こうした不可思議さ以外に、何が創作の発火点となるのか、と思う。

環の奥にあるもの。
それは決して「闇」の抽象ではないはずだ。

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この日記は私が澱むためにあります。
なるべく、眼を澄ませて。

ご無沙汰してました。
お久しぶり。

  1. 2007/11/12(月) 01:37:00|
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死の棘

妻が録り溜めていたNHKドラマ「ハゲタカ」を通して観た。

麿赤児の次男も松田優作の長男も柴田恭兵一世も栗山千明一世も素晴らしい。
ところどころマンガにしてしまう脚本の雑さは感じたが(これは「NHKなのに」ではなく「NHKだけに」なのだろうが)、骨を太くしようとする無謀な策略が、奇跡的に功を奏している。
宇崎竜童、渡辺哲、大杉漣、松重豊、小林正寛、永島暎子、菅原文太に、困ったときの田中泯様、というキャスティングも見事。
それにしても栗山千明の鼻梁から上の造作の完璧さ。
顎がしゃくれ気味でいつも口が半開きでなければ、帰依せざるを得ない美しさである。
顎がしゃくれ気味でいつも口が半開きだからこそ、下腹に疼痛を覚えさせるのだが。


下腹の疼痛といえば、今日日比谷線でおそろしく美しい女を見た。
造作の整然さと、己の骨格と皮膚の色を熟知したメイキャップと前髪と挙措で、俗を纏って俗を超越してみせるハナレワザさえ見せて、ほー、と口をすぼめて見入った。
だが、下腹は疼かない。
彼女の貌や姿態から陰部の形状がまざまざと想像でき、想像を煮詰めて淫しようとしてみたが、興奮できない。
整う、ということは、エロティシズムと対極である。
彼女の長い髪に隠れた耳が奇形であったり、足の指が6本あったりしたとしたら、私は狂うかもしれない。
などと思っていたら、彼女は南千住で下車した。
「顔は○○(原宿・銀座等の地名)、身体は車内」という、人通りの多い場所でワゴン車から女優の顔だけを出させて、社内で玩具で狼藉したりするという、シリーズものの企画AVがあったが、彼女は顔は白金なのに、南千住で下車した。
それをまた敷衍させ物語を紡ごうかとも思ったが、興奮しない。
南千住は熟知しているが、白金はイメージしかないから、かもしれない。
が、それだけではないのだろう。


興奮といえば、私は「興奮」への軽蔑を与件として生きている。
喜びでも怒りでも悦びでも、躁(ハシャ)ぐことを、疎んでいる。
何度も機を逸したのを幸い、人と会わぬよう過ごしている近々の日々に気付いたのだが、この私の性分の根は深い。
恥、を前提として生きている(恥ずかしくなければ気持よくない、気持いいのに恥ずかしくないのは恥知らずだ、という私の考えを、何人かの友人に話してきたが、一度も同意を得ていない)、ということもあるが、それだけでもない。
私もよく人前で躁ぐが、その度に、絶望感にとらわれる。
ま、それでも彼らは友人であるのだから躁いだ私を看過してくれるだろう、と楽観的には決してなれず、ああいう無様を晒してしまった相手とは、一生会いたくない、と自然と思うのが私である。
単純に自意識が過剰なのであろうが、それを省み改めるべき要素を、私は持っていない。
こうした自己分析も、それを改めない為の鎧であり、鎧を脱げば死ぬ、という永井豪「バイオレンスジャック」のキャラクターのように(その設定を知ったとき、私はドッペルゲンガー体験に近い感覚を覚えた)、変わりようが、ないのである。


死ぬ、といえば、先日妻がふと、「怒らないから、本当にしたいことを云ってみて」と寝床で云った。
しばらく考えてから、「音楽も小説も、俺にとっては自殺行為でさ。自殺行為じゃなきゃする意味もないのね。俺は怠け者だから、意味が要るの。だからどっちもやめたんだけど、やめるのと同じ理由で、やるとしてもそれしかないの。自殺。それだけ。いまその手段を選ぶなら、音楽、だと思う」と応えた。
そうしたことを妻に云うのは久しぶりだったので、妻は何やら安心した顔つきで、すぐに深く寝入った。
私も深く眠った。


島尾敏雄「死の棘」を、半分は全く私のことのように、あとの半分は全く他人のことのように読んだ。

  1. 2007/09/07(金) 01:19:56|
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when the sea is rumbling

耳の裏、経絡穴でいえば風池のあたりが張っている。
午前は次男と、午後は長男と寝て過ごす。
少量のアルコールを口にすると、急激に大量の光が眼球に飛び込んでくる。
ハレーションを起した脳髄もすぐに褪め、重る。


性的なフラストレーションと、概ねそれに因るメランコリーこそが私のブルースであり、ブルース以外に唄えることも話せることもないのが私であるが、言葉を吐くことに困難を覚える日々が30歳を過ぎても訪れることに些かうんざりして、煙草ばかり吸う。釣崎清隆のインタビューを熟読する。PORTISHEADを聴く。こうした夏の夜にぬるぬると睦んだ女の人のことを、ではなく、その行為そのものと、匂いを、時間の密度を思い出そうとする。密室に射していた光線の具合や、ひと塊になったシーツや、浴室のタイルの模様や、灰皿の形や、視覚的な記憶しか蘇らないことにひどく失望して、本棚の前に立つ。六田登『海が鳴く時』。


幼き日から若き日にかけて、パラダイムシフト、とも云うべき衝撃を与えてくれたのは、太宰でありショーペンハウアーでありブコウスキーであり、古井由吉でありヘミングウェイでありニーチェであり、大きく文学と括ることができそうなものだったが、私の裡に鳴る通奏低音、とでもいうべきものに名を与えてくれたのは、安達哲や山本直樹や、六田登の漫画だった。


父を見失い己の実体を掴めぬまま成長し、女と出会い子が生まれ、別れ、それから18年経た男が、別れた娘と知らずに交わる。
娘もまた父を探し求め続けていたことが顕かになっても、互いを求め続ける。閉ざした部屋が二人の体液の匂いで澱んでいき、やがて古い時計が鳴り、二人は娘の母親の故郷である島へ向かう。


ありふれたストーリーだと思う己を、いまでも抑制しようとする己がいる。
寄る辺なく、飢えて、求め合うこと、それだけを真実としたい己が、まだここにいる。


お前は誰も愛したことがないのだろう、と18歳の私に云った人がいた。
それのどこが悪い、と実際には矛先の定まらない敵愾心を剥き出しにする若さは、既にない。
いま同じことをその人に云われたら、
ひでえことを云いやがるなあ、と、笑みさえ浮かべることができるだろう。

  1. 2007/07/30(月) 02:08:39|
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無灯艦隊

一ぴきの蝶に襲われている時間

ぎゃあぎゃあと舌毟りあう棕櫚の家

階段で四、五日迷う春の寺

――西川徹郎


 


毎日見る、ということは、記憶よりも忘却に近い。
忘却の清浄さの中から、生涯の反復が淡く浮かんで、棄てられる、往生とはこれに近いだろうか、とどこかで読んだが、蓋し然らん、私は往生を生きている、少なくともそのつもりで、いまここに座っている。


池袋のある風俗店の出勤情報を、毎日見ていた。
それは止すことも止さないこともできた。
私は反復に委ねた。
私も、そこに勤める女も、追ってもいなければ、追われてもいなかった。
互いに逃げたつもりでいたのかもしれない。
私の反復が対称点となって逃げられずに追えずにいると思っていたのは、私ばかりで、寝入りに似た傾斜に沿って(と思っているのも私ばかりだが)、女の名は、消えた。


身の丈、という言葉にアナフィラキシーにも似た反発を覚えるくせに、身の丈に合った滅びを、私はその女に求めていたのかもしれない、と頬杖をついて思うことのできる土曜の午後だが、アルコールが足りない。
抽斗にも眠剤しかない。
眠りたくはないのだ。


ここ数日で記憶に残っているのは、冷蔵庫と壁の間に挟まって動けなくなった次男を助けたときの、重さと熱である。
次男は清澄で、底意地の悪そうな、美しい顔をしている。
焦りに泣き出しながらも、彼はどこかで、愉しんでいた。
だから私も、愉しかった。


私は家の中で迷う。
私には迷える場所が必要なのだろう。
西川徹郎を読むと、迷いの家に、帰ってこれる。


 


肉体をゆめゆめ蓮の葉が犯す

眼ニ刺サッタ山ノ秋津ヲ抜イテ下サイ

二階まで迷路は続く春の家


 


全句集、ほしいな。。

  1. 2007/07/21(土) 16:25:04|
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